日本映画『敵』
昨年の東京国際映画祭で他国の映画を抑え、東京グランプリ/東京都知事賞、最優秀監督賞(吉田大八)、最優秀男優賞(長塚京三)という主要部門の三冠を成し遂げたのが日本映画『敵』であります。個人的には「国際映画祭なのにそれでいいのか?」と疑問が湧いたものの、鑑賞してみるとただただ圧倒されたのでした。
今まで意識して隠していた感情が、老いと共に自分ではコントロールできないものになり脳内で広がっていく恐怖。その様子を一見、知的でスマートな元大学教授の独り者を主人公にしたことで、欲望が彼の日常を侵食していく過程をダイナミックに見せていく構成。
撮り方によってはSF的にも感情的にも表現できる筒井康隆の同名小説を、吉田大八監督はモノクロームでアプローチすることにより時代設定までもミステリアスにしてしまったのです。
考えてみれば主人公は随分と優遇されて生きてきたはず。だって著書が多数ありフランス近代演劇の研究者となれば、「先生」と呼ばれ崇拝されるわけです。この肩書は引退しても社会的に意欲を発揮し、元大学教授というだけで「大先生」だと世間は勝手に尊敬の眼差しを浮かべるのだから。そんな彼自身も体臭を気にする様子から自身の見られ方を意識していることが分かってくるのも上手い演出。更に知的な男性だから好奇心溢れる女性が近づいてくるだろうし、老いてもやはり若い女性に興味を抱くのも男の本能なのだと納得してしまいます。いつまでも消えない性欲を理性で封じ込め、社会から必要とされなくなった自分を認めることも出来ず、愚痴をこぼす相手も居ない。間違いなく主人公は、結婚を経験したものの妻ではなく「仕事」が自分を形成するそのものであり、自分自身も「先生」と呼ばれ尊敬されることに喜びを感じ生きているのです。となれば、仕事が無くなり孤独が倍増すれば、確かに壊れていくのかもしれない。
これを飄々とした口調が印象的な長塚京三さんが表現するなんて、もはや期待せずには居られませんでした。結果は想像以上。しかも彼を取り巻く女性陣の演技の素晴らしさたるや。特に瀧内公美さんは妖艶さ醸す存在感で、徐々に魔性の女へと変化していくし、もう、お見事のひとこと。
見終わってふと考えがよぎりました。
死をも恐れぬはずの主人公は、本当に死を恐れていないのだろうか。きっと「泣き言は男の恥」という過去の教育からひた隠しにしていたのではないだろうか、と。本作が東京国際映画祭で三冠を受賞したことも、審査員達の周囲にそんな人物が居るからもあるのかもしれない。確かに仕事一筋で生きてきた中年が高齢者になり、社会はもちろん、何処にも居場所がないと分かった時、彼らの脳内で何が起こるのか。男のプライドによって「敵」を近づけてしまうスリラーは、どのカットも何気ないシーンなのに忘れえぬ刺激を持っています。これから先、ますます高齢化社会へと進む世界で、一番大事なことはなんなのか見極めることこそが、主人公のようにならない手立てなのかもしれない。
『敵』
1月17日(金)テアトル新宿ほか全国公開
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ⓒ1998 筒井康隆/新潮社 ⓒ2023 TEKINOMIKATA
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宣伝・配給:ハピネットファントム・スタジオ/ギークピクチュアズ
伊藤さとり
伊藤さとり(映画パーソナリティ・映画評論家)
映画コメンテーターとして「ひるおび」(TBS)「めざまし8」(CX)で月2回の生放送での映画解説、「ぴあ」他で映画評や連載を持つ。「新・伊藤さとりと映画な仲間たち」俳優対談番組。映画台詞本「愛の告白100選 映画のセリフでココロをチャージ」、映画心理本「2分で距離を縮める魔法の話術 人に好かれる秘密のテク」執筆。